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日記

お寺に来られるわけ

5日には、10名ほどのお客がお寺を訪ねてこられる予定である。いずれも高齢の男女で、今回が2度目。
ふだんお寺と縁のあるのは、そのうちのお一人だけで、ほかの方々とは面識も薄い。
聞けば、囲碁の同好会の仲間で、盤上の攻防を楽しむだけでなく、折を見ては小さな探訪に出かけるならわしがあるらしい。

今回の来訪も、その延長にあるのだろう。お寺で話を聞き、お茶を楽しみ、庭を眺める──そうした静かな非日常に、どこか惹かれるものがあるのかもしれない。

人生の終わりが、遠く霞の向こうにぼんやりと見えはじめる年頃になると、人はしばしば、日常のざわめきから離れた場所に身を置きたくなるものだ。それは、迫りくるものを忘れようとする時間であると同時に、忘れきれない自分の影をそっと撫でる時間でもある。

お寺という場所は、そうした心の揺らぎを、受け止める力をもっている。 訪れる人の胸の内にあるものを、問いただすことも、慰めることもせず、ただ静かに寄り添う。 私はその沈黙の力を感じている。

お花を活け、お菓子を求め、庭の小道を整えながら、皆さんの時間に寄り添う準備をしておこうと思う。 人が人生の途上でふと立ち寄る場所には、言葉にしがたい縁が働いている。その縁を、そっと受け止めるのがお寺の務めなのかもしれない。

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