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日記

人は裁判官の衣を着たがる

私は、巨人ファン。監督としての阿部さんも応援していた。その阿部さんが、家庭内暴力で一瞬逮捕され、監督を辞任したという事件があった。

世間は、事件が起こると直ちに裁判官の衣をまとい、 それぞれの正義を掲げて罪状を述べ立てる。歴史をひもとけば、 人の過ちというものは、 いつも「きっかけ」や「はずみ」といった 小さな石ころから転がり始めるものであるはずのものだ。

仏教徒だって裁判官の衣を着ても構わないが、そこはしっかり仏法に照らして事件を見たいものだ

網のように巡らされている小さな繋がりまでも、すべてをご存知であり、 その人の前途までも俯瞰して、見守ってくださっているのが仏という慈悲なのだ。

人は、自分に正直に生きようとするとき、 はじめて自らの足元にある道を見つける。 その道は、他人の評価や世間の声とは別のところにある。 仏法を聞くという行為は、 その道を 静かに取り戻すための時間である。

今回の出来事もまた、誰かを断罪するためではなく、人がいかにして立ち上がり、いかにして再び歩き出すかを考えるためのひとつの縁として受けとめたい。世間の風はときに冷たく吹くが、その風の中でこそ、人は自らの温かさや家族の温かさ、仏法の温かさを知るのだ。

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