暮らしの中では、さまざまな境遇の人に出会うことになる。 ひきこもりの若者、不登校の子ども、自死に追い込まれた人、 あるいは身体に障がいをもつ人、罪を犯した人──。 人間社会とは、もともと多様な暮らしの上に成り立っているものだが、 傍観者の目はえてして、その「いま目に映る姿」だけで人を評価する。
しかも、負のイメージを帯びた評価ほど、 人は驚くほど容赦がない。まるで自分の尺度こそが世界の標準であるかのように、 他者の人生を一刀両断にする。
こうした場面に出会うたび、 私は親鸞さまのお言葉── 「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」 を思いだす。 人間の目というものは、 自分の立っている場所からしか世界を見られない。 ところが、如来の深い智慧に耳を傾けている人は、 自分の視点がどれほど偏りやすいかを気づくことができる。
さらにその人は、見えている部分だけで成り立っていないことも気づくだろう。 人々の背後には、語られていない事情や、 誰にも知られぬ苦悩や、出会いの縁も折り重なっている。 それを知らぬままで「善悪」を断じることは、 あまりに浅い。
仏教の視線とは、 人を裁くためのものではなく、 人の苦しみの根を見つめるためのものと言ってもいい。だから、如来の智慧を聞く者は、 軽々しく評価を下さない。 むしろ、評価しようとする自分の心の動きを厳しく見つめる。他者の姿は「評価する対象」ではなく、 自分の愚かさに気づかせてくれる対象とまで思うことになる。