寺という場所は、年ごとに同じ行事がめぐってくるようでいて、 同じ日は一度としてない。一昨日もまた降誕会法座の日であったが、今月に入って三度目となるその勤めは、 どこか初めて触れる風のように新鮮であった。
朝から本堂を掃除し、花を入れ、供え物を整える。 こうした作業は、単なる準備ではなく、 人が仏法に向かうための心を整える行いでもある。 三度も元気にこの場に立てたことを思えば、 それ自体がすでに仏縁の深まりであり、 ありがたいという言葉が自然と胸に落ちてきた。
その日の朝、ふと「不思議」という言葉が近寄ってきた。 それは、手を伸ばせば触れられそうでいて、 しかし決して掴みきれない霧のようなものである。 世の中の「不思議」は、学問の進歩とともに 次々と説明され、姿を消していく。 だが、「なぜ私が人間として生まれたのか」という問いは、 誰も口にせず、不思議の外側に置かれたままになっている。
考えてみれば、この問いこそが最も深く、 そして最も身近な不思議ではないだろうか。
仏教は、こうした問いを避けず、 むしろそこから人の生を照らし出そうとする。 「生まれている」という事実の背後にある縁の網目を見つめるとき、 人は初めて、自分の存在そのものが 大いなる不思議のただ中にあることに気づく。
一昨日の法座は、私にとって、 その不思議の縁にそっと触れさせてもらう時間であった。 本堂に差し込む光のように、 静かで、しかし確かな気づきが胸に残った。