晩年の親鸞さまが、ひとつの境地にたどり着いたとき、紡がれていた詩がある。
『和讃』と総称されるその一群は、三つの流れに分かれている。浄土のありさまを描いた『浄土和讃』、その道をその時代に歩んだ高僧たちを語る『高僧和讃』、そして人間の愚かさを鋭く見据えながら、なぜ浄土が創造されたのかを記述した『正像末和讃』である。
親鸞というお方は、歴史の大きなうねりの中にあって、つねに「人間とは何か」という根源の問いを抱え続けられた。 その問いは、時代の混乱や権力の興亡とは別のところで、ひとりの人間の胸の奥に沈殿し、やがて言葉となって現れている。『和讃』は、その沈殿の結晶のようなものだと思う。
人の営みとは、千年を経ても本質的には変わらない。親鸞さまが見ておられた愚かさも、私たちが今日ふと胸に覚える迷いや弱さも同じ流れの中にある。
親鸞さまは、私たちのいのちの願いがお浄土で輝くということを、『浄土和讃』で確かめておられるのだ。